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おじゃまタクシー■vol.13『大阪巡記②』~「橋」はどこへ行った?
2022.01.21
【おじゃまタクシー】
ちょっとおじゃまします。
【桜にN】(日本交通グループ関西)の元ドライバー 「日交郎(ニコロー)」が、タクシーやハイヤーの乗務経験 をもとに、安全運転に関することや大阪の話題などを自由に 書き綴るブログです。
おヒマなときにでも目を通していただければ幸いです。
さて今回は「大阪巡記」の2回目です。今回も最初に「蜆川」の地図をドーン!と載せまして、「『橋』はどこに行った?」をテーマに書いていきましょう。
大阪市内の梅田・福島周辺の国道2号線には多くの信号・交差点がありますが、四ツ橋筋との交差点を「桜橋(さくらばし)」、なにわ筋との交差点を「浄正橋(じょうしょうばし)」といいます。でもそのような橋はどこを探しても見当たらない。
いやぁ、これも「謎」ですねぇ。
これは地図を見ればおわかりのように、前回の「北新地の謎」でご紹介した「蜆川」にかかっていた橋なんです。蜆川が1909年の、いわゆる「キタの大火」のあと埋め立てられたので、同時に橋もなくなった、と。
地図には「蜆橋」「桜橋」「梅田橋」「浄正橋」しか示していませんが、実際には「蜆川十橋」といって、十か所に橋が架かっていたそうです。で、なぜこの四つの橋を代表に選んだのかといいますと、この四橋だけ「碑」や「建物名」として今もその痕跡が残されているからなんですよね。そのいくつかを写真を添えてご紹介します。
おそらくこのビルオーナーの手によって設置されたものだと思われます。
左の写真の黄枠を拡大したものが右の写真ですが、ビルのデザインにうまく溶け込んでいますよね。
続いて「桜橋(さくらばし)」です。なんだかずいぶんと傾いていますが「元櫻橋南詰」とありますね。
後ろの大きなビルは「堂島アバンザ」。
元毎日新聞本社跡地です。
右の写真を見ると、碑の北側に「明治四十二年七月三十一日北区・大火にて消失」と読めます。この碑は人目に付くところにあるのでご存じの方も多いかな?
国道2号線となにわ筋の交差点が今の「浄正橋」という名になっていますが、この碑はその信号から100メートルほど南に行ったところの「上天神南」という信号の西側にあります。でももう歩道に埋まってしまっていますよね。
この前を東西に走る道路が、かつての「蜆川」の跡になるのでしょうか。
写真の右奥の角に見える黒っぽい建物は朝日放送本社です。
ところで今の浄正橋交差点の北にJR環状線の福島駅があります。…で、私の勝手な思いなのですが、ここは歴史的には「福島駅」よりも「浄正橋駅」のほうがしっくりくるような気がしています。ちなみに福島駅のすぐ北側で「なにわ筋」を横断している踏切は「浄正橋踏切」というんですよ。
さらにいえば「なにわ筋」なんてもっちゃりした道路名ではなく「浄正橋筋」にしたほうがずっとええように思いますねんけどねぇ…。あかんかな?
かつて「梅田」の地は「梅田三昧」という広い墓地のあったところで、その墓地に行くためにかけられた橋らしいですが、「碑」が残っていません。
でも「堂島3」交差点の東側に「梅田橋」の名を付けたビルを見つけました。きっと由緒正しいビルなんでしょうね♪
「梅田の橋を鵲(かささぎ)の橋と契りていつまでも、われとそなたは女夫星 」
(近松門左衛門「曽根崎心中」から)
ここまで蜆川にかかっていた橋の跡を辿ってきましたが、大阪は昔から川や堀、水路が多く、必然的に橋も多くありました。「大坂(←旧地名)八百八橋」といわれていた由縁です。
今でも「天神橋」「天満橋」「高麗橋」「淀屋橋」など歴史に名を残しながらも立派に現役でいる橋がたくさんあります。でも「心斎橋※」「四ツ橋」「日本橋(にっぽんばし)」などは、もう橋そのものが残っていません。
※実は「心斎橋」の実物が大阪市内の某所に移築されて残っています。
それについては、また改めて…。
明治以降の都市近代化によってたくさんの川が埋め立てられ、そこにかかっていた橋もなくされてしまうのは仕方のないことなのでしょう。その意味で「地名」というのはその土地の歴史そのものですし、これからも「地名」は大事にしていきたいものです。
この「大阪巡記」は不定期に更新していきますので、よろしくお願いしますね。
(ニコロー)
#桜にN #安全運転 #ニコロー #北新地 #蜆川 #蜆橋 #桜橋 #梅田橋
#浄正橋
【参考資料】
「十三のいま昔を歩こう~消えた北の新地・蜆川 1」
http://atamatote.blog119.fc2.com/blog-entry-105.html